中部支部(早化会)第5回支部総会での西海英雄教授の講演要旨
2012年3月1日(木)に名古屋ダイヤビルで行われた西海英雄教授の講演会の講演要旨です。
「蘇民将来」講演内容の概要
西海教授が講演で使用されたスライド写真の抜粋
木のお守り「蘇民将来」26葉はこちら(PDF)
- 教授が護符「蘇民将来」に出会ったのは、約30年前の上田国分寺(長野県)を訪れた時に見たポスターに描かれた護符であった。非売品で祭祀の時に頒布される護符である所に興味が湧き、以降その歴史の探訪にのめりこむようになった。
本体6面に「蘇民将来子孫人也大福長者」と書かれてあり、意味は、「蘇我氏の民の将来はこのお守りを持って居れば自由で幸福に生きられる」事かなと勝手に解釈したが、正しいかどうかは今もって判然としない。
- 「蘇民将来」を祀る神社は、全国に47社あり、特に京都八坂神社、尾張津島神社、上田国分寺、入間竹寺、米沢笹野観音および水沢黒石寺が有名である。各々の神社と護符及び祭祀(蘇民祭)が写真で紹介された。
- 蘇民将来信仰は、2001年に長岡京跡地から最古の護符が発見された事、又伊勢神宮周辺にも「蘇民の森」や護符が見られる所から、少なくとも大和朝廷以前の時代から民間信仰として定着していたと推定できる。
- 「蘇民将来」の起源譚を、13世紀の「釈日本紀」に収録された「備後風土記」の中の「疫隈国社(えのくま)」の縁起に見いだせる。即ち、『北の海から南の海に旅した「武塔神(むとうしん)」が途中で宿を乞うたが、裕福な弟の将来は断り、貧しい兄の将来は粗末ながらもてなした。再度来訪した「武塔神」は、弟の妻となっていた蘇民の娘に「茅の輪」を付けさせ、それを目印として娘を除く弟の一族を滅ばした。「武塔神」は自らを「速須佐雄能神(スサノオ)」と名乗り、蘇民将来の子孫と言って「茅の輪」を付けていれば疫病を避けられる』と記されている。教授は、北の海は朝鮮を、南の梅は日本を指していると考えられ、当時、高句麗と百済が新羅に破れて多くの難民が朝鮮半島より渡来して来た事を示唆していると想像している。
- その後、「武塔神」は「速須佐雄能神」から「牛頭天王(ゴズテンノウ)」を名乗るようになる。「疫隈国社」はその後、「広峰神社(牛頭天王総本宮―姫路)」、「祇園社(京都八坂)」と「津島神社(津島)」へと本家争いを経ながらも引き継がれ、「蘇民将来」の信仰が東へ広がって行った。
- 明治新政府による神道国教化政策の神仏分離令により、凄ましい廃仏毀釈運動に晒されるが、「祇園社」は八坂神社、「牛頭天王社」を津島神社と改名、更に「牛頭天王」をスサノオノミコトと改め厳しい排撃運動から逃れた。凄ましい廃仏毀釈運動の実例の紹介があった。
- 「蘇民将来」の信仰そのものである八坂神社境内の紹介と、毎年京都の災厄除去を祈る為に行われる祇園祭りの行事とその意味が紹介された。
- 「牛頭天王社」である津島神社は、神仏分離令のたたりを恐れ、「牛頭天王」に関するものは全てスサノオミコトに変換され、「蘇民社」や「牛頭天王」の痕跡を見出すのが極めて難しい姿で現在に至っている。数多くの変換された社の由来を記す掲示板の写真紹介と現在に引き継がれている祭事「尾張津島天王祭」の紹介があった。
- 西海教授は、長年の観察結果から、7世紀末の百済・高句麗滅亡による大量の難民が日本に渡来し、「蘇民将来」を奉じる民もその一部で、八坂神社或いは津島神社のネットワークで、現地人との摩擦に耐えながら関東から東北を開拓して行ったと推測している。
渡来当時は、大和朝廷が阿倍比羅夫や坂之上田村麿の蝦夷討伐に見られるように関東から、東北地方の制圧・統治を進めていたところから、渡来民も傭兵あるいは統治後の入植者として北上して行った事は確かであろうと推測している。
最後に西海教授より、『蘇民将来信仰に関する資料や神社遺跡等は、講演した以外に殆どないのが実情です。然しながら多くの難民が渡来し、関西から東北にかけて、古くから住んでいた日本人と共生してきた事は間違いない事実なので、皆様の周囲を見る視点に本日講演した内容の史観を是非取り入れて欲しいし、もし新しい発見があったら、教授の所まで連絡して欲しい。』との言葉で講演を終えられた。
(文責 堤 正之)
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